呼吸は生まれてから死ぬまでひと時も休まずに人生のあらゆる場面で私たちの命を支えてくれている.そしてその息はスピリチュアリティの語源にも通じる生命現象である.
https://www.kwansei.ac.jp/cms/kwansei_s_hws/pdf/0000065730.pdf
私達が生活を送るにあたっては、様々な心乱れることが起こります。ここでは、その様な際に役立つ仏教における瞑想について解説を行います。日頃から心が乱れるようなことが多い現代社会においても、瞑想に入ることによって心の安寧を得て平静を作り出すことができます。仏教における瞑想法を身につけることにより、心を無にする機会を作り出し現代社会のストレスの中で生き抜くことができるようになります。心をおられるようなことがあっても、それを克服するような瞑想法を身につけていきましょう。
瞑想とは何かについて
私達が何かに一生懸命になっている時に三昧という言葉を使います。仕事三昧や勉強三昧や読書三昧などという使い方をします。この三昧が意味していることは、何かに集中している、何かばかりをしているというようなことを指します。これは中国から伝わって来たものですが、その大元は仏教の瞑想からきています。インドのサマーディという言葉が中国語になって三昧というなりました。大本の仏教におけるサマーディという言葉の意味合いは瞑想状態にあることをさしてます。仏教では、このサマーディの状態に入った時に真理を得るという風に言われています。
サマーディの状況に入るやり方については、仏教では二通りあると言われています。サマタとヴィパッサナーと呼ばれる方法を用いて瞑想状態に入るという事です。それらのやり方について、これまで仏教で長く伝えられてきました。この二つの方法は全く別のものかというと実はそうではありません。お互いに関連し合っています。従って両方の方法を身につけることが大切です。
サマタでの瞑想について
サマタの意味の大枠を漢語で書くと止とあらわされます。このことの意味合いは、心を乱さずにしずめることです。そのために息を整えるということが行われます。静かに息をしその数を数えるというようなやり方がとられます。静かに息をしてそのことに集中し、無の境地に入っていきます。息を乱さないようにして、息をしながら無の境地に入る事に注目し、呼吸以外のことは考えないようにしましょう。呼吸を意識し呼吸を続けることにより、私達が日頃感じているストレスから解放されるのです。ただ呼吸に心を傾けて、ゆっくりと呼吸に集中する事をできるだけ長い時間行います。しぜんと自分が無の境地に入っていくことが分かります。これまで考えていたことがだんだんと薄くなくなっていくということが分かってきます。このような無の境地に達するということが瞑想状態に入ったということです。言い方を変えると無に集中するということになります。
ヴィパッサナーの瞑想について
先程述べた様にサマタの瞑想というのが心を鎮めるということが主であるということに対し、ヴィパッサナーの瞑想では何かを集中して心で見るということで瞑想状態に入ろうというものです。ヴィパッサナーの意味の大枠を漢語で書くと観とされます。心で見るものというものも様々なものがある訳ですが、よく行なわれるのが呼吸を観るということです。サマタの瞑想と通じるところがあるのですが、呼吸をする際に出る息と入る息というものを観察します。その事に集中をします。このことは先程の三昧ということで述べた事と似ています。何々三昧という時には何かを心で集中してみるということを意味するわけです。そのようにしてじっくりと心で色々な事を観ることによって、無の境地に達するということです。そのもの以外のものは考えないという意味で、最終的にはサマタ瞑想と似たような状況になってくる訳です。ヴィパッサナーの迷走とサマタの瞑想は、入り口は違うのですが結果としては同じところを目指しているということになります。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の関係
ここまで述べてきたようにサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想は、サマタの瞑想では心を鎮めるということヴィパッサナーの瞑想では何かに集中して観るということと、最初の入り口は違うのですが最終的には同じところに達するということになります。この事は、古来より仏教でも言われています。両者は車の両輪のように互いに無くてはならないこととされています。どちらかをやればいいという問題ではないのです。どちらかのみで成立するというものでありません。逆に言うと、どちらも互いに深く関係しているという風に言うこともできます。どちらかを最初にやっても結局は両方が行なうようなことになるというのが仏の教えです。そのことを表す仏教の言葉として止観というものがあります。この止観という言葉の止はサマタ瞑想を意味し、観はヴィパッサナー瞑想を意味します。お互いのやり方の役割はお互いの事に効果的に働くものであり、その事で瞑想状態に入っていくという事です。
まとめ
ここまで述べてきたように、私たちが日ごろ使う何々三昧という言葉は元々はインドのサマーディという瞑想状態を表わす言葉です。瞑想状態に入るやり方としては、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想という異なった二つのやり方がありますが、この二つのやり方というのは入り口が違うだけで到達するところは同じです。お互いにその重要性を高めあっていくというような存在になっています。このような意味合いを理解し、ゆっくりと瞑想に入ってリラックスをしストレスを解消がされると良いでしょう。